思い出しながら徒然と…
今年も1月17日がやってきましたね。
私は前日16日朝から長野県にスキー修学旅行に行ってました。
そして翌朝、先生がバタバタと起床前の我々女子たちが眠る部屋に入ってきて『おい、テレビつけろ!神戸が震度6や!!』と叫びました。(そのときにはまだ7とは発表されてなかったんだね)
なんのことやらさっぱり…まだ夢のなかかと思いながら、それでもテレビをつけると、画面にはなにやら見たことある、『神戸』の文字と、あわただしくしゃべるアナウンサーの姿が。
時間が経つにつれて、地元近くの長田のジョイプラザがうつったり、三宮のフラワーロード上にビルが倒れていたりと、正直わけのわからない状況を、なぜか我々は遠く離れた長野県で見ることになったのです。
それでもスキー合宿はおこなわれることになり(電車も不通で帰れないしどうしようもなくって感じかなあ…先生方も頑張ったよね。大人になってみてそうおもうよ…)、雪上に集合したけど、なんかもう頭と体が別々みたいにふわふわした気持ちで、楽しめるとかそういうのはなくてとにかく言われたことをしてるだけ…でした。
私は家とは地震の朝には連絡つかず、夜に少しつながり、ちゃんとしゃべれたのは次の日でしたが、友達は5日後に高校にバスで戻るまで親の安否がわからなかった子もいて、ほんとに生きた心地がしないとはこのことだとおもいました。
親と連絡ついたとき、はじめに母に『家では最初、富士山が爆発したんじゃないか?おねえちゃんは大丈夫か?と家族で心配していたんだよー』っていわれました。
結局テレビもつかないし当事者が一番よくわからないのだと改めて感じました。
そして、それだけ、一般市民的には、関東は地震が多いけど神戸には地震が来ないね、よかったね…みたいな感じでなんとなく言い伝えられてただけに、かなりかなりのショックでした。
今は日本中どこにいても…ですけどね。
その頃はそんな感じでした。
なんとなく水と電池がないらしいとうわさを宿舎やテレビで聞き、土産らしい土産も買わず、鞄に入るだけの電池と水を買って帰ったら、高校から家までの間に、鞄が重すぎて持ち手が切れて、泣きそうになりながら、帰りました。
あ、高校までは、夜行列車で帰宅予定だったのが不通になったので、大阪から迎えのバスが急遽きてくれて地震から5日後に大回りしてかえれたのでした。
で、電池と水。
帰ってみたら、なぜかそれはたっぷりと救援物資でもらえていて、なんのために買ってきたのだとせつなくなったのでした〓
私の中にちゃんと1月17日の日の、びっくりしたことやこわかったこと、つらかったことがあるのに、でも、あの揺れを経験していないことで、未だにある種の罪悪感を持ち続けています。
その気持ちを少し昇華できたのは、仕事で、震災から10年のときに、公募で集まってくれた中高生に震災を記憶に残す映像を撮ってもらったことでした。コーディネーターとして、そのインタビューなどを聞いたり映像をとったりしてるうちに少しづつ、私の経験も一人の神戸に住む人間が経験した地震なのだと思えるようになりました。
この記憶をまた子供たちに伝える…。
昨年は東日本で震災があったし、なんか地震は日本にいればいつなんどき起こってもおかしくない…だからこそ防災減災の知識を高めること、命の大切さを普段から…でも、なかなかそんな普段から…とはいかないから、こんな日だけでも話すだけでも違うのかなとおもいます。
あの日の一番こわかったことは、私にとっては、揺れではなく、地元のことを遠く離れた地から見続けなければならないこと。
揺れを経験しなくてよかったじゃないかと思うかもしれませんが、宿舎の部屋で17歳の女子高生たちが、家は土台は強いらしいけどおばあちゃんの部屋は重い家具ばかりで倒れていたりしたらどうしよう…など考えながら、どんどん不安になる情報を見続けて、どんどん流される死亡者名を般若心経を心の中で唱えながら、何卒知り合いの名前が出てこないように…と祈りつづけて…
これも、大概、ほんと、苦しかったのです。
思い出したくない人もいるとおもいますが、一年に一回、こんなことがあったなあと思い出すこと…これも大事かなと。
でもそれは身内に亡くなった人がいないから言えることかもですが。
家は半壊になり、瓦はぜんぶおちて、ようやく2年前にその改修費のローンがおわりました。
母も障害をもつ父や大学受験前の私たち姉妹、おばあちゃんを抱えながら、よく頑張りました。
この何年か毎年mixiやブログに1・17のことを書いてますが、やはり書く内容も変わってきてるなと改めておもいました。
親になってからの思いはやはりまた違うかも。
それだけ年月も過ぎたのね…。
またこれから一年も神さんから生かされた私を大事にして頑張ろうとおもいます。

























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